財政赤字の意味論
 

   はじめに

 私は、現在の日本が抱える重要な政治課題のひとつである、財政構造改革について検討した。特に、橋本政権のもとで行われた財政赤字の削減について批判的な視点から考察し、それが真の意味での改革ではなかったことを主張する。なぜなら、経済的にみると日本の財政赤字は意味のないものであるからだ。この結論は、経済学の古典的議論からもたらされる。

 つまり、現在の日本の財政が抱える基本的問題は、巨額の赤字や大量の公債発行そのものではなく、その背後にある行財政の施策や制度にあると考える。特に、施策や制度が、社会的経済的条件の変化に適切に対応していないことが問題となっていることを指摘する。そして、その解決を行わない限り、到来する高齢化社会に日本は対処できないと考える。

 本論文は、まず、現在の日本の抱える財政赤字がいくらであるか確定しないことを主張する。巷間で主張されるように、公債の累積残高のみが財政赤字ではないからである。次に、公債の発行についての経済的な意味を考察する。ここでは、内国債と外国債の本質的な違いについて指摘し、日本の財政構造改革とは、財政支出の見直しであることを主張する。最後に、これまでの議論を経て、現在の日本の財政支出についての再検討を行う。この中で、日本の財政は、現在においても「高度成長型財政体質」を存続させていることを指摘する。また、景気浮揚策として、ケインズ政策が日本で本格的に行われたことは、無かったことを主張する。

 私が読者に注意を促したいのは、素朴な疑問から発生する主張は、直ちに信用してはならないということである。マスコミの報道する日本経済の状況など、ほとんど間違いといっても過言ではない。残念ながら、彼らの主張に対する反論は、ごく少数の人々によってしかなされていない。現代の政治学や経済学は高度に発展している。この知見を利用せずに現実の事象を考察するのは、大学で学んだものとしては怠惰といえよう。
 なお、今回の議論は国債のみではなく、地方債なども含む広義の債権を指すため、公債という表現を使う。
 

   財政赤字は存在するか

 財政構造改革に関する議論を行う前に、現在の日本の抱える財政赤字は、日本経済にどのような影響を与えるのかを検討しよう。その際、最初に考えなければならないのは、現在の日本の財政赤字はいくらになるかという問題である。

 このように書くと、読者は驚かれるかもしれない。一般に、日本の財政赤字は巨額であり、その額は数百兆円であると、確定的に報道されているからだ。これは、現在までの公債発行残高をそのまま表記している場合が多い。あるいは、「隠れ借金」という表現で、支払いの繰り延べ額を含む場合もある。

  しかし、これは、厳密な定義によって算出されているわけではない。特に、支払い繰り延べ措置についていえる。このことに関しては、以下で説明することとしよう。
 

   支払いの繰り延べと「隠れ借金」

 通常、「隠れ借金」と呼ばれるものは、当該年度に発生する支払いを将来に先送りする、支払い繰り延べ措置のことを指す場合が多い。例えば、公的年金に対する国庫負担を四分の一に削減することによって、年に一八〇〇億円の支出を減らしていることなどがあげられる。実際には、この代替措置として、数年後には、削減分を増額して年金負担を行うこととなっている。従って、長期的に見ると支出が減っているわけではないので、「隠れ借金」と呼ばれているのである。

 また、防衛費における国庫債務負担行為も「隠れ借金」の範囲内とされている。これは、装備等の購入に際し、契約のみを当該年度に行い、実際の支出は後年度に行うものである。これによって、年間約三兆円の支出義務を後年度に先送りしている。これは民間からの借り入れと同じことであり、従って、公債発行と同じ行為である。

 これら以外にも、通常は「隠れ借金」の概念には入らない、地方交付税特別会計に対する資金運用部融資も、公債を資金運用部に引き受けさせることと同一の効果を持つため、「隠れ借金」であると考えられる。

 以上の制度は、税や社会保険料の負担の現在値も時間的分布も変化させることなく、単なる財政技術的な措置により、財政赤字をかなりの規模で操作することが可能であることを示している。ただし、この方法では、本来財政赤字となるはずであった金額は明示的であり、だからこそ「隠れ借金」と呼ぶことができるのである。

 しかし、以下の方法によって、金額も明示的ではなく、技術的な財政操作による赤字隠しは可能である。
 

   利子補給金方式と出資金方式

 ここで、投資額が一〇〇億円で事業収益が五億円の事業を想定しよう。この時、利子率が八パーセントであれば、この投資を行った企業は毎年三億円の赤字を発生させることとなり、この事業からは撤退せざるを得ないだろう。

 ところが、何らかの社会的理由や政治的理由によって、この事業を継続させる必要があるとするならば、政府は年に三億円の補助金をこの企業に与えることとなろう。これを利子補給金方式と呼ぶ。この場合、補助金は租税によって賄うものとする。

 しかし、事業継続を目的とするならば、これとは別の方法も考えられる。それは、初年度に三七億五〇〇〇万円の補助金を、出資する方法である。残りの六二億五〇〇〇万円のみを民間企業が出資すれば、この八パーセントは五億円となり、赤字は発生しなくなる。これを出資金方式と呼ぶ。この場合の出資金は、公債を発行して賄うものとする。ちなみに、第三セクター方式の企業は、このようにして設立されている。

 以上の二つの方式による経済に与える影響は、全く同じである。それは、補給金の現在価値が、三億円を八パーセント(〇・〇八)で割ると三七億五〇〇〇万円になることからも納得されよう。つまり、税負担の現在価値も時間的分布も同じなのである。

 しかし、前者は均衡予算となり、後者は初年度に財政赤字が発生する結果となった。従って、後者を前者の方式に変えれば財政赤字は縮小するわけである。

 この方式を例えるならば、就職してから全く月給を受け取らず退職金のみで賃金支払いを済ませるのか、毎月の給料は得るけれども、その分、退職金はもらえないかという違いなのである。

 実際に、一九六〇年代後半になってから、頻繁に出資金方式から利子補給金方式への変更が行われた。現在でも、全ての公共事業を利子補給金方式にすれば、五兆円の支出削減になると試算する人もいる(野口[一九八四(A)])。
 

   支払い義務と課税義務

 ところで、こうした現象のおきる理由は、予算が単年度主義であるため、将来の支払い義務を無視するからである。つまり、現在時点での収支のみで、財政赤字を評価するために起こるのである。こうした考え方には理由がある。それは、将来の支払い義務を、現時点で予想するのは困難だからである。

 児童手当を例にあげて考えてみよう。現に生まれている子供はカウントすることができるので、現在の支払い額のみならず、数年後までの支払い分も予想は可能であろう。ところで、将来生まれてくる子供はカウントするべきであろうか。数年後の予想はともかく、数十年後の予想は困難に近いだろう。実際に、現在の出生率の低下は、厚生省の予想をはるかに上回るペースで進んでいる。また、子供の出生数の予想が可能だとしても、経済の規模が変化すれば、支給水準も変化する。これは、三〇年前の一万円と現在の一万円の価値の違うことを想起すれば明らかだろう。

 つまり、将来の支払い義務を計算する上で基礎となる数値は、解釈の余地がかなりあるので、将来の支払い義務を算出することは困難なのである。

 また、支払い義務に関しては、別の問題も発生する。将来の支払い義務を「隠れ借金」として財政赤字に含めるならば、将来の課税義務は財政黒字として計算しなければならない。この考え方を押し進めるならば、財政赤字は恒等的にはゼロになってしまう。なぜなら、国家が永久に存在すると仮定したならば、納税者もまた永久に存在するからである。つまり、将来の支払い義務に関する考え方を押し進めると、財政赤字の概念は消滅するのである。

 もちろん、このような考え方は極端であろう。ただし、支払い義務の考え方に関して、公的年金を含むか否かで答えは大きく変わるのである。

 公的年金について、政府は支払い義務を負っている。完全積立方式ならば問題は全くない。この方式では、保険料と年金額は同じであるからだ。

 しかし、現在の年金制度は修正積立方式と呼ばれ、実質的には賦課方式となっている。例えば、厚生年金は、標準的な加入者につき給付金は五八一〇万円であり、これに対する保険料は二六四〇万円となっている。この差は三一七〇万円である。

 つまり、政府は、厚生年金新規加入者一人あたりにこれだけの額の負担を行わなければならないのである。厚生年金加入者全体では、三二五〇万人なので、一〇三〇兆円となる。これは、公債発行残高の四六七兆円と比べても巨額の数字である。しかも、これは仮想上のものではない。これらの支払いのために、政府は、将来国民負担率を引き上げねばならない。これは、公債の償還時に増税するのと同じことである。

 経済効果の点でも、公債の発行によってクラウディング・アウトが発生するのと同じように(クラウディング・アウトについては後述する)、この「財政赤字」でもクラウディング・アウトは発生する。なぜなら、完全積立方式の場合に比べて保険料が低いため、人々は消費を増加させる。これは経済全体の貯蓄を減少させるので、資本蓄積は減少するのである。このように、公的年金を含めて考えると「財政赤字」の額は、極めて大きく変化するのである。

 以上の議論から「財政赤字」や、あるいはその計算根拠となる税収や支出は、あいまいな概念であり、明確な経済的意味付けを与えることができないと結論付けることができよう。また、現に、予算書や国民経済計算などに記載されている税収や支出の値は、統一された基準に従って定義されてはいないのである。

 このように、「財政赤字」とは非常にあいまいな概念であり、経済的に何らかの意味を持つものではないと考える。
 

   財政赤字罪悪論は真実か

 これまでで、現在の日本の財政赤字という概念が、意味を持たないことを指摘した。以下においては、公債発行自体は、内国債である限り、租税による財源調達と何ら違いのないことを指摘する。

 財政構造改革に関する議論の多くは、巨額の公債発行そのものが問題であり、公債の減額が財政構造改革そのものであることを自明の命題として、なされている。しかし、公債発行や財政改革がなぜいけないかという基本的問題に対する答えは、明確ではない。以下での議論の目的は、この問題に対する論点を整理することにある。

 一般に、大量の公債発行がもたらす問題点として、次の五点があげられている。

 第一に、非常に素朴な主張として、公債の発行を家計の借金に例えた主張がある。これは、収入に不相応な借金をしているというものである。しかし、これには単純な間違いがある。公債保有者のことを忘れているのである。

 家計の場合は、借金の返済時期が来れば、家庭内から資金は流出する。一方、日本で発行されている公債は、国内で消化する内国債である。従って、公債の償還資金は、公債保有者である国民に受け取られる。よって、家計とは本質的に異なる。

 つまり、公債によって得られた資金は、未来からの借金ではないのである。後述するが、公債を発行することによって得られた資金は、民間企業の投資資金が削られるか、貨幣の創造、つまりインフレーションによって賄われているのである。そして、これらの負担は、その現象の起こった時点、つまり公債発行の行われた時点において発生する。

 また、「公債残高が増え、国民一人あたりで巨額の借金を抱えてしまった」といわれる。これは公平な表現ではない。公債保有者から見ると資産なのだから、「同じ額だけの資産もある」としなければならない。

 第二は、公債の利払いや償還に追われ、財政本来の役割を果たせなくなり、長期的には、公債の累積による公債費の増大によって、財政を破綻させるというものである。

 この議論は、直感的には正しいように感じられる。実際に、一九七〇年度の一般会計当初予算における公債費の比率は三・七%であったが、九七年度には二一・七%にまでなっている。ちなみに、九八年度は、財政構造改革の影響で二〇・一%に低下した。

 しかし、このような直感的な議論に対する反論が、ドーマーという経済学者によってなされた。この議論の要点は、名目経済成長率より名目利子率が高くなければ財政は破綻しないというものである。これは単純な微分方程式によって、厳密に証明された。また、そうした事態は、長期間継続するとは考えにくい(詳しくは野口[一九八〇]、[一九八四(A)]を参照されたい)。

 しかしながら、近年では、日本の経済状況の低迷を反映して、経済成長率よりも利子率の高い状態が続いている。この問題に対処するには、ある程度の公債発行抑制は必要となるかもしれない。重要なのは、公債発行を悪だとする意識をなくすことである。

 また、重要な視点として、公債に関する支出自体は、その他の支出と何ら変わることはないということを併記したい。公債費がその他の経費、例えば社会保障費などに比べて価値が低いということはないのである。公債費は、公債保有者に対して資金を償還するという、重要な使命を果たしている。

 また、現時点での政策決定によって将来の支出額がある程度限定されてしまうことを指して、公債発行を批判する議論もある。しかし、社会保障費などについても、制度を導入した時点において将来の支出がある程度は決定されてしまうことに注意が必要だ。

 三番目に、租税による財源と違って負担感が薄いため、公債収入に安易に依存する風潮を生むという主張があげられる。つまり、赤字財政は負担が明確でないために、財政の放漫化をもたらしやすいということである。

 ブキャナンとワグナーは、その著書『赤字づけの民主主義』の中で、政治経済学的立場からのケインズ批判を展開した。その主張は以下のとおりである。

 黒字予算の経済的利益(インフレの防止)は間接的なものであるのに対し、その負担(増税や歳出削減)は市民にとって直接的な犠牲を意味する。一方で、赤字予算の経済的利益は市民にとって直接的であるのに対し、その負担は公債による場合も、貨幣創造による場合も間接的である。従って、民主政治のもとでは、ケインズ政策の実施は、赤字のみが実現して黒字は実現しないという傾向がある。さらに、赤字財政のもとでは、市民は公共財の価格があたかも低下したような錯覚を持つため、赤字財政は公共部門を肥大化させる傾向がある。

 これらの主張は目新しいものではなく、実務家にとってはむしろ常識的なものであったといえる。以下では、こうした見解の妥当性を検討しよう。

 ブキャナンらの主張は、同一の財政負担が財源調達手段の差によって異なって認識されるという、財政錯覚である。ブキャナンらは、これを公債による場合と租税による場合について比較している。これについて、公債の負担感が租税のそれよりも納税者にとって希薄であることは、十分認められるだろう。

 ただし、ここで注意しなければならないのは、租税の負担感は、決して同一ではないということである。例えば、申告方式の所得税と源泉徴収方式の所得税では、後者のほうが負担感は薄いだろう。また、法人税などは商品価格への転嫁の可能性があり、納税者と負担者の異なる場合があるので(こうした見解からすると、法人税を直接税に分類している現在の一般的な見方は覆される)、負担者にとって、負担をしているという意識は希薄であるか、もしくは負担していることを想像もしていないのではないだろうか。

 次に、ブキャナンらの主張するような赤字財政から財政放漫化へのメカニズムが、わが国の財政において実際に働いていたかを検討しよう。若干古い資料だが、野口[一九八〇]によるとその傾向は全く見られない。むしろ逆のメカニズム、財政放漫化から公債発行を経て緊縮予算へと動くことが読み取れる。

 こうしたことの生ずる原因は、わが国の予算編成のメカニズムがアメリカのそれとは異なるからだと考えられる。

 アメリカの予算編成過程においては、得票最大化行動をとる政治化が重要な役割を果たしている。一方、日本では、それがよいか悪いかは別として、官僚の影響力がかなり強い。政治家が影響力を発揮するのは、ごくまれに補助金などの部分的な決定時でしかない。そして、官僚は、市場の動向に左右される公債の発行よりも、公権力によって調達できる租税を望むと考えられる。

 第四は、負担を後代に残し、世代間負担の公正を阻害することについてである。公債の負担については、前述したとおり、発生しない。ただし、公債償還に伴う税負担は発生する。この点を問題とする人もいるかもしれない。しかし、これは、さほど問題とはならないのである。

 ひとつには、負担額の小さいことがあげられる。ここで、年に一〇兆円の公共投資を増やし、その財源を建設公債で賄ったとしよう。この状態を一〇年間継続させたならば、総額で一〇〇兆円の公債発行を行ったことになる。公債を六〇年で等額償還するならば、毎年の償還額は一七〇〇億円程度である。一〇年目以降は、それに先立つ一〇年分の償還が重なるため、ピーク時における毎年の償還は、一・七兆円程度となる。

 これに対して、社会保障給付の増加に伴う国民負担率の上昇は、はるかに大きい。厚生省の高齢社会福祉ビジョン懇談会が発表した「二一世紀福祉ビジョン」では、一九九三年度から二〇二五年度までの間に、社会保障負担の対GNP比は一〇%ポイント程度上昇すると予想されている。現在の日本のGNPは五五〇兆円強なので、これは右の例で上げた公債償還額を大幅に上回る、約五五兆円の負担増であることを示しているのである。

 二つ目に、社会資本の便益は、資本の蓄積(建設)の行われた時点で失われるのではなく、後世にも残るため、社会資本の整備に関して建設公債を財源とすることは望ましいとの結論が得られる。

 ここで、ある道路を租税負担により建設した場合と、公債の場合について比較検討してみよう。租税の場合、建設された年の納税者のみが建設を負担することになる。この場合は、後世代は道路に対する負担をしない。公債ならば、償還までの数十年間は、毎年負担が行われる。つまり、後世代も負担を行うのである。ここで重要なのは、道路の利用者は、道路建設後の何十年もの間存在するということである。後世代の利用者の負担がなされない租税方式よりも、公債方式による公平な負担が望ましいことは、いうまでもない。

 最後の問題点は、民間の資金需要を圧迫したり(クラウディング・アウト)、通貨供給量の過大な増加を通じて金融面からインフレ要因を持ち込む恐れについてである。

 クラウディング・アウトは、公債発行による利子率の上昇によって発生する。つまり、クラウディング・アウトとは、利子率が上昇することによって、民間企業が資金を借りることを回避することをさすのである。利子率の上昇を防ぐためには、公債の市中消化を防げば良い。そのためには、中央銀行が公債を全額引き受けることが必要となる。

 日本では、財政法によって、新規発行公債を日本銀行が直接引き受けることは禁止している。ただし、発行後一年を過ぎた公債については、市中から買いオペレーションによって買い上げることができるので、事実上、全額引き受けを行うことは可能だ。しかし、公債引き受けに伴うマネー・サプライの上昇は、インフレーションを引き起こす危険が高い。つまり、公債を発行すると、クラウディング・アウトかインフレーションの、どちらか一方が必ず起るのである。

 この際、注意しなければならないことは、クラウディング・アウトとは、本来民間で行われるはずであった資金の供給を、政府に移し変えただけということである。つまり、ある家庭において、お金の使い手が夫から妻へと移っただけで、その一家の支出であること自体が変化したわけではないのと同じなのである。

 従って、政府の支出が納得の行くものであれば、クラウディング・アウトは容認できる。

 一方、インフレーションは、人々の労働意欲を減退させたり、低所得者層に対する課税効果を持つなどのマイナス面が大きいので、容認することは難しい。

 以上の議論の結論は、公債の発行は建設公債に限って望ましいということである。ただし、その支出内容が社会の要求に反する場合は、容認できないものとなる。現在の状況を分析し、支出の内容を見直すことこそが、真の財政構造改革といえよう。
 

   日本の財政支出を分析する

 前節までの結論を受け、現在の日本の財政支出が、時代の要請に合致しているかについて、以下で検討を行おう。

 結論を先に述べるならば、現在の財政支出の内容は、社会の要求に合致しているとは言い難い。現在の日本の財政は「高度成長型財政体質」を存続させているといえる。そこで、まず「高度成長型財政体質」とは何かについて、定義したい。端的にいえば、それは成長に伴う格差を是正するという役割を果たしている状態を指す。

 高度成長期において継続的に支出の増大した費目は、地方交付税交付金、道路整備事業費、食糧管理費と中小事業対策費の四つである。前者の二つは後進地域への資本移転であり、後者の二つは生産性の低い産業への所得補償である。

 高度成長期の地方交付税交付金の増加理由は、交付金額の算定基準となる国税三税の収入増加よりも、交付税率の継続的な引き上げという政策的な事情による。住民税や固定資産税が所得上昇との間に相関関係が無いため、税率を引き上げなかった場合には、国家財政と地方財政の格差が広がったと考えられる。その是正措置として、国から地方への資本移転が行われたのである。

 また、道路整備事業費については、大都市よりも、農村部、後進地域への歳出が多かったことを考えると、地域格差是正に対する意味合いが濃かったと考えられる。

 これらは、実際の数字でも明らかである。高度成長期を通じて地方一人あたりの所得は、大都市圏の六割から七割程度であった。しかし、一人あたりの投資額はほぼ同水準であり、一九六〇年代後半には大都市圏を上回っている。

 確かに、大都市問題が真剣に議論されたことは、それまでにはなかったといって良いだろう。「都市政策」と呼ばれるものは、実際には地方分散政策であり、都市集中抑制策であった。これは、一票の格差などで地方が優遇されていたために、都市部の声が政策に反映されにくいといった事情もあろう。

 さて、後者の二つについて、表向きの理由はどうであったにしろ、生産性の向上を目指すものではなく、完全に所得補償を目的にしたものであったと考えられる。特に、農業に対する手厚い保護は有名であった。こうした方法に問題があるのは、ターゲット・グループに対する補償だけではなく、周辺グループ(例えば農業用機械や肥料の生産者)にまで所得移転が行われてしまうからである。

 しかし、私は、このような格差是正措置を否定するものではない。経済成長は、それ自体が不均衡を促すものであるから、むしろ是正措置は当然であると考える。

 ところが、これらの政策を容認していた経済情勢は、一変した。第一に、高度成長期にそれなりの意義を持っていた制度が、今ではその存在意義を消失してしまった。第二に、高度成長の終焉は、非効率な施策を容認することができなくなった。

 以上のような政策は、生産者、特に低生産性部門にとっては、望ましいものであった。市場経済において生産性の低い企業は淘汰されるため、所得移転等で補助を受けなければ、生存できないからである。

 しかし、これは消費者の視点から見ると望ましくない。なぜなら、市場原理で淘汰される企業とは、消費者の要求にこたえられない企業だからである。

 この点で「生活者の視点」を政治が強調するのは、誠に望ましい変化である。ただし、その変化が現実を伴っていないことに問題がある。最近の円安基調で忘れ去られてしまったが、九五年の円高に対する論調の多くに、国難であるとの表現がなされていた。円高は、消費者にとっては望ましいものであるにもかかわらず、望ましくない現象であるとの認識がもたれているのはどういうわけであろうか。円高に対する認識の改まらない現状は、日本に「消費者重視の社会」が到来していない証左だ。
 

   ケインズ政策は実施されたか

 財政の問題を考える際に、現在の日本の経済発展は、ケインズ政策によってもたらされたとする考え方は、根強く残っている。そして、それによって、現在の財政赤字が生み出されたとの議論が導き出される。つまり、「高度成長型財政体質」に否定的な見解が主張されるのである。

 しかし、私は、ケインズ政策が日本において本格的に実施されたことはなかったと主張する。

 まず、ケインズ政策とはどのようなものであるかを、以下で簡単に定義しよう。

 市場経済の下では、有効需要の不足は、失業の長期化を招く恐れがある。従って、政府は、有効需要拡大策を講ずる必要がある。また、そうした政策は、経済情勢を良く見極めて、裁量的になされるべきである。

 以上で述べたように、ケインズの想定した社会とは、供給に比べて経済全体の需要が不足しがちな社会であった。しかし、高度成長期の日本経済は、これとは異なっていた。将来に対する期待が高く、企業は積極的な設備投資を行った。また、大都市への人口流入による住宅建設も盛んであった。

 従って、日本にとっての問題点は、需要が不足して経済が沈滞することではなく、逆に、供給能力が需要に追いつかず、慢性的なインフレ圧力が存在していることであった。このような情勢の中で、財政は、積極的な支出ではなく、後ろ向きの格差是正措置をとりつつ、需要の抑制を行っていたのである。
 

   謝辞

 私が日本の財政について興味を持ち出したのは、高校三年の秋であったから、もう二年が経とうとしている。そのころから、私は公債発行を罪悪視する見方に批判的であった。

 しかし、現在の多くの論調は、相変わらず公債発行罪悪論である。例えば、九八年七月に行われた自民党総裁選において、三人の立候補者は、全員が橋本内閣で行われた「財政構造改革」は長期的には正しかったと述べていた。私の打ち崩そうとした概念は、かなり強固であったようだ。

 この二年間の間に、何人もの人々と議論をし、新しい視点や知識を得ることもあった。しかし、基本となる考え方に変化は起きなかった。それは、日本の財政が有効に機能するならば、経済は必ず再生するだろう、そして、そのためには公債発行を罪悪視してはならないだろうという考えである。

 最後に、私の拙い論文を載せることを許可してくださった政治研究会の会員の皆様に感謝をしたい。また、五大ディスカッションその他の機会に、口下手な私の議論を辛抱強く聞き、有意義で建設的な反論を下さった皆様に感謝を述べることとして、この論文を終えることとしよう。
 

   参考文献

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以上
1998年10月記