J.S.ミル『自由論』

   第1章 序説

 この論文の主題は、自由についてである。その自由とは、市民的、社会的自由のことをさしている。言い換えると、社会が個人に対して正当に行使できる権力の本質と限界について述べようとするものである。

 古代における自由とは、政治的支配者の圧制に対する擁護を意味していた。支配者は、被支配者たる人民とは敵対関係にあった。被支配者たちは、支配者が社会的に行使することを許された権力を制限するように求めた。

 この自由を求める運動は、二つの道にわかれた。ひとつは、政治的自由や政治的権利と呼ばれる、ある種の責任免除を支配者に承認させることであった。二つ目の運動は、憲法による抑制を確立することであった。

 これらの運動のうち、前者はある程度の成果を得た。ヨーロッパ諸国の支配者の大多数は、責任免除を承認せざるを得なかったのである。

 しかし、後者は簡単にはいかなかった。そこで、自由を求める人々にとっての目的は、「憲法による支配者の権限の抑制を確立させる」こととなったのである。

 人類の進歩とともに、人々は「絶対君主」が必ずしも統治に必要ではないことに気がついた。国家の統治は人々によって行われるほうが、遥かに優れていると考えるようになった。つまり、統治者と国民は同一であるべきだという考えが広まったのである。先に述べた自由を求める運動も、以上のような目的の変更にあわせて変化した。

 これらの結果、世界の多くが民主的共和国となった。そこでは「自治」という政治形体における問題点も明らかになってきた。すなわち、「多数者の暴虐」という問題が明らかになったのである。

 「多数者の暴虐」とは、社会の決定が誤ったものである際に、他のさまざまな政治的圧制よりもさらに恐るべき措置をとってしまうということを指している。このような事態を防ぐためには、法律や世論によって、若干の行為を規制しなければならない。但し、その行為の範囲をめぐっては有効な結論が出ているわけではない。

 以上のように、自由が尊重される社会でなければ、その社会の政体が何であろうとも、自由な社会とは言えない。真の自由とは、他人の幸福を奪わず、しかも他人の幸福を得ようとする努力を阻害せずに、自分自身の幸福を追求する自由のことである。

 しかし、世界の現状は、世論の力や立法の力によって、個人に対する社会からの圧迫を不当に伸張させようとする傾向が増大している。これはゆゆしき問題であり、何とかこの動きを抑制させなければならない。

 さて、議論を行うためには、すぐに一般的な論題をはじめるのではなく、最初にその論題の中の一部に、私の考察を限定するのが便利だと思う。これまでに述べてきた「一部」とは、思想の自由についてであった。以下では、これらと関連する問題についても論じていこうと思う。
 

   第2章 思想および言論の自由について

 「出版の自由」は、一時的に訪れる危機の時期を除けば、十分に認められるようになった。

 政府の方針と反対の意見であろうと、その意見をねじ伏せることは出来ない。たった一人を除く全人類が同じ意見だとして、唯一主張の異なる人の意見を強制的に黙らせることは出来ない。

 意見の発表を妨げるということは、人類の利益を奪い取るということである。それは、現代の人々の利益を奪うとともに、後代の人々の利益を奪うものである。また、その意見に同意する人々の利益を奪うことはもとより、その意見に反対の人々の利益をさらに一層多く奪うものである。

 もしもその意見が正しいものであるならば、人類は誤りを正して真理をとる機会を奪われる。また、たとえその意見が誤っているとしても、人類は真理と誤謬との対決によって生ずる「真理の正確さ」を認識する機会を奪われるからである。

 この問題については、次のような2つの仮定を、別々に考察して見ることが必要だ。

 第1に、権威によって抑圧されている意見は、真理であるかもしれないという仮定である。この場合、抑圧しようとする人が「自分の意見に絶対性がある」と確信する誤りを犯すことによって起こる。

 歴史上、「自分の意見に絶対性がある」と確信したことによって、人類が誤りを犯してきたことは多々ある。キリストやソクラテスの最期は、当時の人々にとっては当然の結果であった。これらの結果を批判できるのは、我々が現代に生きているからである。

 また、抑圧された意見が誤りであったとしても、それは真理の一部分を含んでいるかもしれない。また、一般的
な意見が完全な真理であることは、絶無であると考えられるので、一般的な意見が完全な真理を取りこむ機会は、相反する意見と衝突することによってのみ得られるのである。

 第2に、一般的に認められている意見が真理であると仮定しよう。この場合、その意見に対して活発で真摯な反対意見の表明が許されなければ、一般的意見を支持する人々の大多数は、自ら支持している意見に対して絶対の信頼をおかず、またその合理的根拠を理解し、実感するということが少ないと考えられる。

 また、反対意見の存在しない一般的な意見は、人々の心に届かず、人々の生活の一部として認識されないおそれがある。

 これまで、意見の自由と意見を発表することの自由は、人類のもっとも基礎となる幸福である精神的幸福にとって必要なことを確認した。したがって、意見の自由と意見を発表することの自由は、どうあっても守られなければならないといえる。
 

   第3章 幸福の諸要素の一つとしての個性について

 次に、意見の自由を擁護するのと同じ理由で「人間は自己の意見を実行する自由を持たねばならないのではないか」という問題について検討する。

 前述の通り、多様な意見の存在が真理の追求にもたらす利益は、非常に大きい。これらの影響は、他人に害を及ぼさない限り、行動の自由に対してもほぼそのままに適用できると考える。

 問題は、行動の自由を生み出す個性に対して、一般の人々の多くが無関心であるということである。むしろ、個性を「異端」として軽蔑してしまうのである。

 個性の必要性は、意見の自由が必要な理由と変わらない。人間が不完全な存在である限り、異なる行動様式や文化を持つ人々の存在は、非常に重要となってくる。個性のない社会は、既にある慣習や経験によって動かされ、それらの行動が正しいかどうかの判断はなされない。これでは、人類の進歩は止まってしまう。

 人類が生まれてきた当初の社会では、個性によって多くの混乱が生まれていた。これらを制御し、個性を抑制した状態を人間は徐々に作り上げてきた。カルヴァン派の主張では、没個性こそ最も望ましい状態とされている。近年では、このような考え方に多数の人が同調している。人間が美しい状態であるためには、他人に対して迷惑にならない範囲で、強い個性を示さなければいけないのにである。

 つまり、個性は発達と同じ意味であり、発達した個人を生み出すのは個性以外にはありえないのである。では、発達していない個人はどうすれば発達するのであろうか。それは、個性的な人々から学んでゆくことによって発達していくといえよう。

 個性的な人々は、新しい真理を打ち立てることは言うに及ばず、その個性に基づいて新たな社会規範を生み出していくことも可能である。そして、こうした人材が現代には求められているのである。

 現在までヨーロッパが停滞せずに成長してきたのは、ヨーロッパ人の性格と行動が多様性を持っていたからである。しかし、近年はその発展の要素が失われつつある。フォン・フンボルトの言う発展の必需品は「自由」「状況の多様性」であるが、後者は日々減少しているといわざるを得ない。それは、教育の充実や技術の進歩によって広い地域の同化が進んでしまったからである。このような状況であればこそ、個性の権利を強く訴えなければならないだろう。
 

   第4章 個人を支配する社会の権威の限界について

 前に、個性を発揮することは、他人に害を与えない限り最大限に認められるべきであると述べた。では、その限度はどこまで認められるべきなのであろうか。社会と個人の境目について、具体的な点についても触れてみたい。

 社会契約論は誤っている。社会に生きるということ自体、その他の人々と関わりを持っているということである。従って、相互の利益を侵してはならないということになる。また、社会や社会に属する個人を守るために生じた負担は、それぞれが担わなければならないということにもなる。

 これまでも述べてきた通り、個人は、他人に迷惑をかけない限り、それぞれが自分の思うままに生活をすることができなければならない。また、他人が成人に対して、その生活に関する意見を述べる権利はない。なぜなら、自己愛こそが、最も判断可能な幸福追求の指針だからである。

 つまり、他人と関係を持たない部分で唯一の不利益なこととは、他人から受ける悪評であるということであり、他人にとって不利益なことに対する処置とは、取り扱いがまったく異なるということである。

 しかしながら、現代においても、私生活の自由に対する侵犯というものは現実に行なわれている。また、さらに甚だしい侵犯が行なわれるという兆しすらある。民衆は、自分たちが悪とみなす行為を法律によって禁止するだけではなく、悪とみなす行為を予防するために、無害と認めている行為さえ禁止しようとする意見すら出てきているのである。

 例えば、不節制の防止を理由に、イギリスのとある植民地とアメリカの半分以上の州で薬用に使う場合以外は、醗酵飲料の使用を禁止している。また、安息日厳守主義の立法も堂々と実行されるようになった。

 この問題について、モルモン教に対する迫害を取り上げて終わろうと思う。私は、モルモン教の教義について、野蛮であると思っている。しかし、否、だからこそ迫害をするほどのことはないと考えている。文明が野蛮に征服されるかもしれないと恐れることは、行き過ぎであると思う。

 一度征服した敵に負けるような文明は、もはや頽廃していると考える。従って、そのような文明は、早々に滅びるのが望ましい。そのような文明では、悪が栄えるだけであって、たくましい野蛮人によって滅ぼされ、更生させられるより他ないと考える。
 

   第5章 適用

 これまで述べてきたことについて、細かい点の議論の基礎となるために、一般に広く認められなければならない。以下では、その点について述べる。それによって、この論文の2つの主張について、意味と限界をはっきりさせることに役立つだろうし、2つを適用させることが疑わしい場合には、両者の均衡を保つことの判断材料となるだろう。

 今述べた本論文の2つの主張とは、ひとつが「個人は、その行動が他人に対して利害関係にない場合には、社会に対して責任を負わない」ということであり、もうひとつが「個人は、その行動が他人と利害関係にある場合には、責任があり、社会が罰を望む場合にはそれに服さねばならない」ということである。

 最初に、他人害を与える可能性のある場合に社会の干渉が正当化されるからといっても、常にそれが正当化されるわけではないということである。例えば、正当な競争によって勝者が利益を得る場合などは、社会は不干渉でなければならない。

 次に問題となるのは、国家は、行為者の最善の利益に反すると考えられる行為を許しておきながら、間接的にこれを思いとどまらせようとするべきかという点である。例えば、国家が酒を高価にしたり、販売所を規制したりするということについてである。これらの具体的事例を個別に考えてみると、酒税を増税させることは肯定される。また、販売所に関する規制は、一定の限度までは正当化できると考える。ただし、販売所の数を規制するというような強い規制は、とても正当化できないと思う。

 最後に、個人の自由とは逆の問題について取り上げる。個人の自由を政府が支援することについてである。これについて、政府の支援に対する反対意見は3つ上げられる。

 第1に、政府が事を成すよりも個人が事を成した方が効率的な場合があるという主張である。これは、経済学者によって説明がなされているのでここでは取り上げない。

 第2に、個人は政府よりも効率的に仕事を処理できないが、個人自らの精神教育の一環として、個人によって仕事が処理された方が望ましいという考え方である。これは、国民教育の問題とも関わってくるがここでは取り上げない。ただひとつ言っておくべきことは、個人がこのような仕事に従事することは、個人的なあるいは家族的な小さな世界から個人を抜け出させ、社会との結合を強く認識させる契機となる可能性が高い点である。社会との結合を認識しなければ、自由な社会というものは創造できないし、維持もできないのである。

 第3番目の理由は、不必要に政府の権力を増大させるという指摘である。政府の機構が大きくなり、個人の活動が政府に支えられるという事態になった場合、法的に自由な社会が維持されていたとしても、それは名目上のことに過ぎない。

 人類の進歩と自由を妨げるものを確定し、利益を多く確保しつつも大きな政府を作らないようにする。それは政治にとって最も難しい問題である。これを解決するには、人材を地方へ分散し自由に活動させ、中央は情報統制のみを行うという方法が良いだろう。政府が様々な点まで口を出すようになると、国家の活力は失われてしまうと考える。

 参考文献
J.S.ミル 『自由論』岩波文庫

1999年12月記